え!知らなかった…江戸と風水の意外な関係

え!知らなかった…江戸と風水の意外な関係

江戸と風水の繋がり

風水という名は、中国の唐王朝の時代、葬書(そうしょ)という書物に書かれていたことから、思想として名付けられました。
それ以前は、ずっと前からあったとも言われていますが、地理・堪輿・墓相など呼び名は様々でした。以前とは、まだ明確になっていないのですが、少なくとも紀元前には行われていました。
墓相、などと聞くと、なんだか縁起の良くないものとも思われがちですが、そもそもは家やお墓の位置をどこに置くのが良いか判断するためのものとして存在していたのです。
陰陽などの考え方はあったので、生きている人は陽の場所へ、亡くなった人は陰の場所へと分けていたことが始まりと考えられています。
そこから、日本へ風水が渡ってきたのが奈良・飛鳥時代と言われています。ただし、そこから日本の風水の思想は独自で進化をしていき、現在のものへとなったようです。
その風水を多く取り入れていたのが江戸です。江戸の街づくりには、様々な形で風水を取り入れていました。多く風水を取り入れていることから、現代では江戸を風水都市とも読んでいます。

江戸を風水都市にした影の存在

江戸と言えば、徳川家康を思い描く人が多いでしょう。
しかし、風水都市は徳川家康が直接行っていたわけではありません。
実は、風水都市にしたのは、徳川家康から徳川家光まで計画、建設まで監督をした天海僧正という影の存在のお陰です。
しかし、この天海僧正に関しての詳しい情報などは分かっておらず、なぜそこまでの風水の知識があったのか、どのようにして徳川家康へ近づくことが出来たのかは明らかになっていません。
明智光秀が天海僧正という名に変わり、行きついたという話も出ていますが、やはり現在でも謎の多き人物として言い伝えられています。

江戸を風水都市にした天海僧正の実績

風水都市と言われるほどの江戸は、天海僧正の力によって大きくなったと言っても過言ではないと言われています。
例えば、江戸城は当時鬼門が空いている状態でした。鬼門とは、鬼が入る場所として、縁起の悪い場所でした。鬼門は、丑と寅の間、北東の方角を指し、裏鬼門と言って、同じような意味を持つのは未と申の間、南西の方角を指します。
そこで、天海僧正は北を守るために寛永寺、東北を守るために神田明神、南を守るために増上寺、西南を守るために日枝神社を建てました。これらはすべて、現在でもパワースポットとして人気を集めています。
また、他にも四神相応、青竜(そうりゅう)・白虎(びゃっこ)・朱雀(すざく)・玄武(げんぶ)などを取り入れて神社や塚を各所に造りました。それらはすべて面白いことに、江戸城を核として、のの字型にあたる場所へ建てられていると言われています。
神社の数の多い場所というと、よく京都が出てきますが、実は東京の神社の数のほうが多いです。
いずれにしても、現在でも多くの大きな建物で風水を取り入れたり、皇居などの国に大きく関係する建物でも風水が使われているという話があります。
徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の三代に関わってきた天海僧正ですが、江戸幕府が270年と長い年月存在できたのは、この風水のお陰だったという声も多くあります。
それも、あながち間違っていないのかもしれません。

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